HANA-MOMO’s diary

日々の思いを思いのままに・・・ ぼちぼち書いていきますのでよろしくお付き合いくださいませ。

終戦記念日 

ホテイアオイ 近くの田んぼの沼地から春に引きずって来たら花が咲きましき。

昨日はお盆は最終日 知人のお母様の初盆参りでかけた。正午前車を走らせているとカーテレビ(音声だけ)から戦没者慰霊の模様が聞こえてきた。一分間の黙祷を・・・
運転中なので そこはお許し頂いた。

お盆の送りをする日が終戦記念日というのも何か少し複雑・・・私は戦争は全く知らない世代 私の実家では 戦争で亡くなった人はいなかったのか 大人達が話さなかったのか 戦争の話はアニメや夏休みの課題図書で知った位だった。中学生の頃 たしか教頭先生で国語の先生でもあった少し小柄の先生の中では一番年上のその先生は授業の合間に自分の戦争体験の話をしてくれた。覚えているのは悲惨な戦場の話ではなく捕虜になっていた時の苦労話をそれも悲惨な話ではなく面白いハプニングの話ばっかりだ。 義父は戦争の経験があるようで パートナーの実家には軍服に身を包んだ若い写真が置いてある。戦争から帰って来てパートナーは生まれている。彼の名前は 男性にも女性にもある名前で 戦友に(もしこどもが授かったら名付けて欲しい)と頼まれて名付けたと聞いたことがある。と でもそれ以外の事を義父自信が語る事はなかったという。

私が戦争の悲惨さを自分で感じたのは まだ学校には行っていないくらいの頃 お正月に初詣に行くと 出店が並ぶ一角に片足の無い兵隊さんがハーモニカを吹いて 前に置いた缶に誰かがお金を入れると深々と頭を下げていた姿だ

そして先日九州に来る新幹線の中でおもいたした。 昔 夜行のサクラで九州に来た時の事 私が乗ったのは上下二段の二段ベットが向かい合った座席の寝台列車だった。隣り合わせたのは90近いおばあちゃんで終点の佐世保まで一緒だった。おばあちゃんと話したのは 朝を迎えた本州を離れようかとする頃だった。何の話からそうなったか思い出せないが おばあちゃんの家は佐世保の山の中腹にあるようだった。佐世保の町には 米軍基地があり 終戦後米軍の兵隊さんが町にはたくさんおられた。おばあちゃんは仕立ての仕事をしていたらしく 米軍の兵隊さんのお客さんも多かったらしい。急な坂道を上がらないと行けないおばあちゃんの家に 兵隊さんは良く珍しい食料や布地を持って現れたらしい。そして兵隊さんは優しかったと まだ幼顔の残る兵隊さんを敵とかそんな風に見たことはなかったと。おばあちゃん自信も息子さんが兵隊にいったきり帰って来なかったので 息子さんにしてあげたかったことを兵隊さんにしてあげた。と話してくれた。私の記憶も薄らいでいるけど 佐世保の駅に降り立ったおばあちゃんは 娘さんとお孫さんだろうか迎えに来た家族とともに何度も何度も私に頭を下げて改札をでていった。

戦後77年 今も世界の何処かで戦争が起きている。戦争を知らずに生きていられるこを幸せにおもいます。

夕方 お墓参りに行って 色々な思いと一緒に ご先祖様をおくってきました。最近は環境の問題やコロナの事もあって 精霊送りも随分寂しいものになりました。